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2012年01月04日 失われた蕎麦を求めて [食文化論]

2012年01月04日 失われた蕎麦を求めて

1月4日(水)
夕食は、西武秩父駅の「仲見世」で買ってきた田中製麺所(秩父郡小鹿野町下小鹿野)の生蕎麦を茹でる。

かなり色が濃い外観にひかれて試食してみる気になったのだけど、茹でていて、これは駄目だと思った。
お湯が白濁しないのだ。
蕎麦湯としての価値がないので、お湯を捨ててしまった。
120104-1.JPG
食べてみて、やっぱり・・・と言う感じ。

昨日の夜に仕込んで一日寝かせた付け汁が上手にできたので食べられるが、はっきり言って、わざわざ買って食べるレベルではない。

ただし、田中製麺所の名誉のために付けくわえると、東京の蕎麦屋でこのレベルの蕎麦を出している店はいくらもある。
さらに、これ以下の店もある。

5段階評価だとCで、付け汁がまともならC+もある。
つまり、普通ということで、けっして駄目なわけではない。

口直しに「武蔵屋」(秩父市番場町)の半生蕎麦を1袋だけ茹でる。
120104-2.JPG
食べた途端に、
子供「絶対にこっち」
パートナー「ぜんぜん違う」

そうなのだ。
蕎麦の味が全然違う。

こちらは5段階評価でA-(店で食べればA評価)

最近はやたらと蕎麦の蘊蓄を垂れる人もいるが、蕎麦なんて、そもそも山村の代用食で、そんな複雑玄妙な食べ物ではない。
それなりの蕎麦粉でそれなりの水を使い、すべきことをちゃんとして打てば、十分においしい蕎麦ができる。
おいしくない蕎麦は、それをしていないということなのだ。

私の故郷では、大事な来客があると、主人が客の相手をしている間に、その家のおばあちゃんが蕎麦を打ち、おかみさんが蕎麦汁を作る。
小一時間して、客がそろそろ腰を上げようかという頃に「どうぞ、食べてってください」と蕎麦が出て来る。

私も子供の頃、父親のお相伴で、何度かご馳走になった。
もちろん、どの家でもできることではない。
蕎麦打ち上手のおばあちゃんがいる家でのことだ。
いまから45~50年前、昭和30~40年代の話。
私が求めて止まないのは、そうした蕎麦打ち上手のおばあちゃんが打った蕎麦の記憶、味なのだ。

それに一番近いのが、今のところ「武蔵屋」の蕎麦ということ。
あの蕎麦打ち上手のおばあちゃんの蕎麦は、もうこの世から失われてしまったのだと思う。


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