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2012年05月23日  57歳の誕生日に思うこと [日常(思い出話)]

2012年05月23日  57歳の誕生日に思うこと
5月23日(水)
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木々の青葉が日に日に濃くなり、つつじの花が美しく咲くころ、私は生まれた。

放射線の専門医だった父は戦後混乱期の結核の巡回診療で大量被曝、37歳の母親は当時としては超高齢初産。

生まれる可能性がとても少ない子だった。
実際、母親の最初の妊娠は胞状奇胎で流産だった。

母親はつわりがとてもきつく、何度も母子ともに危うい状態になった。
なんとか男の子が生まれたものの、お乳が飲めず、また命が危なくなった。

父親が腕の良い医者じゃなかった、たぶん母子ともにはかなくなっていたと思う。

子供の頃は身体が弱く、幼稚園(5歳)の病欠は60日。

小学生1年(6歳)のときには麻疹から肺炎を併発し42度の高熱で死にそうになった。
この時も、父が医者じゃなかったら助からなかっただろう。

加えて、歩き始めた1歳の時に縁側からガラス戸を突き破って庭に転がり落ちた。
割れて散乱したガラスの中にうつ伏せに倒れている私を見て、母親は血の気が引いたと言う。

3歳の時には自宅の前の道でオートバイに撥ねられて門の中に飛んできて、叔父の足にぶつからなかったら、庭石に激突するところだった。

9歳の時には自転車で小型トラックの側面に衝突して、自転車がグシャグシャになった。

13歳の時に、友人の家の車庫の屋根から3m下のコンクリートに転落して、頭を打って意識不明で自宅(病院)に運び込まれた(なぜ、救急車が呼ばれなかったのか?)。
後で聞くと、父は「これは駄目か」と思ったとのこと。

どの事故にしろ、ほんの僅か何かが違っていたら死んでいたと思う。

そんな生まれ育ちで、子供時代の私にとって「死」は遠いものではなかった。

よく57歳まで、とりあえず元気で生きてこられたと思う。

最近は、「生きてこられた」というより、性別の移行も含めて、そう「生かされた」のだと思っている。

なぜ「生かされた」かという、「ちゃんと仕事をしろ!」ということなのだと思う。
ちょっと気取った言い方をすれば「天命を果たせ!」ということ。

あと5年、本気で頑張って仕事をしよう。
その後は、またその時だ。

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たくさんの方から、誕生祝いのメッセージをいただき、ありがとうございました。

誕生日の朝、ブログに貼った写真があまりにもブログ主「遠影」なので、本当に57歳の誕生日に撮った「近影」写真を貼っておきます。
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2012年01月07日 順子、最初の年賀状(平成5年=1993年) [日常(思い出話)]

2012年01月07日 順子、最初の年賀状(平成5年=1993年)
1月7日(土)

順子が最初に作った年賀状。
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平成5年(1993)、今から19年前。
女装クラブ「エリザベス会館」に通って女装修業していた時代。

文字は、今は亡き「プリントごっこ」で印刷。
写真のプリントをカットして糊で貼り付けてある。

写真は、前年(1992)1月に撮影した青地に花車の柄の大振袖。

制作枚数はたしか6〜7枚くらい。
主にファンの男性に差し上げた記憶がある。

手元に保存されているのは、宛先不明で戻ってきたもの。

翌年から、写真屋さんに依頼した写真年賀状になる。

2011年10月18日  叔母の墓参り [日常(思い出話)]

2011年10月18日  叔母の墓参り
(続く)

駅前のスーパーマーケットで、生花とお線香、それと雑巾、ライターを購入。

15時25分発の大月行き普通電車に乗る。
都留文科大学前駅から2つ目の都留市駅で下車。

都留市の中心をなす旧谷村(やむら)町は、江戸時代の初期には城下町だった。
谷村藩(郡内藩)は最初は徳川譜代の鳥居氏が3万5000石で入り、次いで同じく譜代の秋元氏が1万5000石を領した。

谷村の町の北側には、城下町によくあるように防衛線を兼ねていくつかの寺が並んで置かれた。
駅から10分ほど緩い登り坂を歩いて、その内に一つ円通院を訪ねる。
立派な山門がある、格式の高そうなお寺だった。
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実は、私の母の妹(叔母)が、谷村の商家に嫁いでいて、一つ年上の従姉がいた。

私は子供の頃、祖母に手を引かれて何度も谷村の叔母の家を訪ねたことがある。
その叔母の家に、沖縄から来ていた都留文科大学の学生さんが下宿していて、彼女に「琉球郵便」の切手をもらったのが、都留文科大学と私との最初の縁だった。
まだ沖縄が本土復帰する前の、もう50年も前の話だ。

最後に叔母の家に泊まったのは、大学1年生の夏休みのことだった。
民俗学のレポートのために、富士吉田に火祭りを見に行った。

叔母に最後に会ったのは母が亡くなった時だったと思う。
それからほどなく叔母も体調を崩し、長患いの末に亡くなった。

しかし、いろいろな事情があって、葬儀には行けなかった。

私の母方の祖母の実家は、美人が多く出る、しかも老化が遅い家系だったが、叔母はその血筋を最もよく受けて中年になっても若々しく美しい人だった。
気立ても、長女だった私の母とは対照的な、末娘らしく明るく華やかだった。

昨年、都留文科大学の非常勤講師を依頼された時に、叔母の墓参りのことが頭に浮かんだ。
しかし、昨年度はいろいろあわただしくて、その余裕がなかった。

今年の正月、年賀状のやり取りだけは続けている従姉に叔母のお墓のあるお寺さんの名前だけは聞いておいた。

ということで、今日、やっとお寺を訪れることができたのだが・・・。

山門をくぐり、庫裡に声をかけた。
反応なし。
お墓の詳しい場所をきくつもりだったが、仕方がないので、墓地へ。

墓地はそれほど広くなく、傾斜地に作られていたので、ほぼ全体が見渡せる。
叔母の名字が刻まれた墓は4つあった。

一つ一つ巡って、墓誌に刻まれている俗名を確認していく。
ところが見つからない。
困った。

その時、庫裡の内(墓地は庫裡の裏手にある)に人の気配を感じた。
そこで、もう一度、庫裡に戻り、今度は遠慮なく大きな声を掛けた。

反応なし。
やはり誰もいないのかなと思った時、腰の曲がったおばあさんが出てきた。

叔母の氏名と住所、それに家号を告げて、お墓の場所を尋ねた。
思い出してもらえない・・・。
これは駄目かな?と思いながら、思いついて施主(叔父)の名を告げたら、「もしかして・・・あのお墓かな」と反応が返ってきた。

「場所だけ教えてくだされば結構です」と言ったのに、案内して下さるという。

しかし、それからが大変。
おばあさま、腰が曲がっているので、手押し車を支えにして歩くのだが、墓地は傾斜地なので坂道がなかなか上がらない。
私も手提げ袋とお花で両手が塞がっているので、うまく介助できない。

やっと「かもしれない」というお墓に着いた。
墓誌に叔母の名がないことは確認済だが、その時、おばあさまが「施主さんのお名前が裏にありますよ」と教えてくれた。

ああ、そうだった、なぜそれに気づかなかったのだろう。
施主の名は、間違いなく叔父の名だった。

そして、古い卒塔婆に叔母の名が入った「〇〇尼」と書かれてあり、やっと確認できた。

案内してくれたおばあさまに御礼を言って、お墓の掃除にかかる。

お墓はかなり汚れていた。
叔父も80歳を過ぎ、体が不自由だ。
従姉も離れた場所に住んでいる。
そうしばしば墓参りも叶わないのだろう。

雑巾1枚では、満足がいく掃除をするのは無理だったが、できるだけのことはして、お花とお線香を供える。

子供の頃、可愛がってくれた御礼と、長い間の無沙汰を詫び、縁あって都留文科大学で講師をしていることを報告した。

お墓探しと掃除で思いがけず時間を費やしてしまい、駅に戻った時には乗る予定の電車が行った後だった。

でも、これで長年の気持ちの引っかかりが取れた。

また時間があるときに来よう。
今度は小さなデッキブラシ持参で。
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2011年10月18日 枕元の放射線源 [日常(思い出話)]

2011年10月18日 枕元の放射線源
10月18日(火)

10月16日放送のフジテレビ「Mr.サンデー」で、婦人用のアンティク−ク時計に放射線測定機を当てたところ、8μSv/hを記録した。

いうまでもなく、時計の針や文字に放射性物質(ラジウム)を含む夜光塗料が使われているからである。

ところで、私は、子供の頃から今に至るまで、寝起きがたいへん悪い(やや低血圧)。
目覚まし時計は、学校に行くにも、仕事をするにも必需品だった。

子供の頃は、円い文字盤に足がついた大きな目覚まし時計を枕元に置いていた。
暗い部屋でも夜光塗料を太く塗った針が光って、一目で時刻がわかった。

あんな小さな婦人用腕時計で8μSv/h、私のあの大きな目覚まし時計は、いったいどのくらいの放射線を出していたのだろ?
控えめに見て倍、15μSv/hくらいだろうか?

つまり、毎晩、枕元、つまり頭のすぐ近くに、放射線源を置いていたのだ。
遠足の前の日などには、ご丁寧に2つも・・・。

でも、別に禿げてはいない。
56歳になるまで癌にもなっていない。

これは、私だけの特異な経験ではなく、同じ世代(56歳±5)の人たちは、だいたい同じ体験をしているはずだ。

しかも、一歩外に出れば、米ソ英仏中の核大国が膨大な回数繰り返した大気中核実験がまき散らした放射性セシウムや放射性ストロンチウムを含むチリが大量に舞っていた。
その中を遊び回っていた。

(参照)2011年03月21日 「放射性物質にさらされた世代」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201103210001/

だから、数μSv/hとか、300Bq/平方mとか、今さら何を・・・と、どうしても思ってしまう。

まして、私の場合、子供の頃、自宅のレントゲン室で遊んでいたという特異な体験があるわけで・・・。

とは言え、妊婦さん、子供、これから子供を生む予定の女性は、できるだけ被曝しないようにすべきなのは言うまでもない。


2009年03月03日 雛祭りの思い出 [日常(思い出話)]

2009年03月03日 雛祭りの思い出
3月3日(火) 曇り 夜、雪 東京 6.0度 湿度 46%(15時)

8時、起床(仕事部屋)。

昨夜、ひたすら眠ったのに、花粉症&風邪はあまり改善せず、体調、甚だよろしからず。
雑排水管清掃の予定がなかったら、一日中、寝ていたい気分。

お風呂に入って、身体を無理やり起こす。

化粧と身支度。
豹柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカット・パンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ボア襟の黒カシミアのポンチョ。

10時、雑排水管清掃の作業員、来訪。

11時過ぎ、仕事部屋を出る。

学芸大学駅前(西口)の「コロラド」で、朝昼ご飯。
シーフード・ドリアとコーヒー。

13時半、帰宅。

服を着替え、化粧を落として、ベッドへ。

4時間ほど眠る。

19時、パートナーが帰宅したので起きる。

民主党の小沢一郎代表の公設第一秘書、政治資金規正法違反容疑で逮捕のニュース。
麻生首相が、どれだけ支持率が下がっても、妙に自信有りげにニヤニヤしていたのは、この奥の手があったからなのだな、と思う。

夕食は、パートナーが作った、鶏団子のクリーム・シチュー。
あまり、食欲なし。

お風呂に入って、髪を洗う。

ところで、今日は雛祭り。
ウチは、男の子なので、テレビの上に、猫雛が出ているだけで、特になにもしない。
私が元気だと、蛤のお吸い物を作るのだけど、今年は、その気にならなかった。

正直言って、雛祭りには、あまり良い思い出がない。
雛祭りの日、自分がそこに居たいと思っても、「男の子だから」と追い出された、哀しいような悔しいような記憶があるからだと思う。

つまり、自分にとって、雛祭りは、性別違和感を刺激される日なのだ。

今でも、女性限定の集団の中に居るのは苦手で、そういう場にはできるだけ近寄らないようにしている。
いつ、誰に「あなたは違うから出て行きなさい」と言われるかもしれない恐怖感が拭えない。
今後、どんなに女性として社会適応していっても、たぶん、その気持ちは、一生、消えないと思う。

その点、素直に、自分のこととして雛祭りが祝える(自分が女性であると揺るぎなく確信できる)MtFの性同一性障害者が、ある意味うらやましい。

夜になって雪。
うっすら積もる。

早めにベッドへ。

就寝、1時。

2008年10月08日 物理は苦手だったなぁ [日常(思い出話)]

2008年10月08日 物理は苦手だったなぁ
10月8日(水) 雨のち曇り 東京 20.5度 湿度 85%(15時)

明け方、激しい雨音で、目が覚める。
ああ、寝てしまった・・・。
それにしてもよく降るなぁ(降水量51.0mm)。

5時半、起床。

シャワーを浴びて、身体と髪を洗う。

ノーベル物理学賞のことを「日記」に書く(別掲)。

高校時代の私、理科4教科の中で、お家芸(ずっと学年トップ)の地学、理系に伍して学年トップを競った化学、子供の頃から好きだった生物に比べて、物理はいちばん苦手だった。
というか、興味がわかなかった。
成績は、ずっと6~7(10点法)だったと思う。
これではまずいと思い、3年生2学期の期末試験だけ、特訓勉強して100点を取り、やっと8に引き上げた思い出がある。

だから、正直、よくわかなない。
それだけに、髪と鉛筆で宇宙の本質に迫る偉大な思考を為した先生たちを、素直に尊敬してしまう。

9時、化粧と身支度。

Vネックの黒のプルオーバー(7分袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。

午前中、講義。

昼食は、いつものように回転寿司(6皿)。

13時半、仕事場に戻る。

溜まった新聞を読みながら、宅急便の配達を待つ。

めずらしく、佐川がペリカンに先着。

郵便局に出かけて、小包を受け取る。
中身は、講談社選書メチヘの『性欲の文化史1』(別掲)。
私は「女装男娼のテクニックとセクシュアリティ」を執筆。

帯に藤色白抜きで、大きく「魏志倭人伝から女装男娼まで そそられる社会史」とある。
「男娼」という文字が、こんな大きな活字になったの、久しぶりではないだろうか?(苦笑)

18時半、自宅最寄駅前の「ドトール」で、仕事帰りのパートナーと待ち合わせ。
お茶と買い物をした後、いっしょに帰る。

19時半、帰宅。

夕食は、鶏のスパイス焼き、温かいお豆腐。
なめこと三つ葉のお味噌汁を作る。。
それと、いなだのお刺身。

巨人vs阪神の最終決戦、3-1で巨人が快勝。

ついについに、141試合目で今シーズン初の単独首位!
これで、優勝マジック2が点灯(残り3試合だけど)。
13ゲームの大差を追いついただけじゃなく、とうとうひっくり返しちゃった(別掲)。

夜のニュース。
アメリカのウッズホール海洋生物学研究所の元・上席研究員下村脩さん(80)がノーベル化学賞を受賞。
オワンクラゲの発光の仕組みを研究し、緑色蛍光たんぱく質を分離、構造を解明した業績。

これで、今年は日本人4氏がノーベル賞を受賞する大当たり年に。
でも、この方も典型的な頭脳の海外流出なのだよね。

お風呂に入って、髪を洗う。

寝支度しているパートナーが、いきなり「あっ!忘れてた!」と言う。
なにかと思ったら「結婚記念日」
そうだった。私も忘れてた、10月4日・・・・。
もう4日も前じゃないか・・・。
ん?そもそもその日は出張で家にいなかったな。

「で、何回目だっけ?」
「22回目にゃ」
「それはちゃんと覚えてるのね」
「にゃ」

まあ、お互い忘れてたので、トラブルはなし。

夜中、明日の講義のレジュメを作る。

その後、溜まっている事務処理。
諸方にメールのお返事を書く。

就寝、5時。

2008年01月01日  懐かしいメール [日常(思い出話)]

2008年01月01日  懐かしいメール
1月1日(火・祝)

留守中に溜まったメールをチェックしていたら、15年前の「元彼」Yさんからのメールを発見。

私のサイトに「ふと、久々に」寄って、メールを送ってくれたらしい。
6年ほど前に短いメールをもらったことがあったので、まるまる15年ぶりではなかったけども、超久しぶり。

びっくり! うれしい! 懐かしい!
いちばんのお年玉。

私は、『Queer Voices from Japan』(2007年4月 ロンドン)という本に収録された「My Life a“Woman”」という題の「自伝」の中の「男たちとの夜-セクシュアリティの開花-」という章で、「Yさん」とのことを次のように記した。

ちょっと恥ずかしいけども引用してみる。

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初めの1回はひたすら痛かった。しかし、Yさんがテクニシャンだったせいか、それとも私に秘められた才能があったせいか、2回目の行為で受身の性的快感をしっかり得ることができた。彼との関係は数ヵ月に1度のペースで2年ほど続いた。六本木の喫茶店で待ち合わせて、食事をして、軽く飲んで、ホテルでセックスを楽しむという普通の若い女性と同じデートコースは、「籠の鳥」だった私が社会的な女性性を身につける上で貴重な体験だった。最初の「彼」としてはつくづく良い人に当たったと思う、今でも時々懐かしく思い出す。
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私の気持ちは、今でも、この文章の通り。

つまり、37歳の遅い遅いロスト・ヴァージンの相手。
それまで「男嫌い」を通していた私を愛してくれた最初の彼。
「女」としての私を作ってくれた人のひとり。
その後、私の身体の上を過ぎていったたくさんの男性の内で、今でも懐かしく思い出す、心から感謝している数少ない(2人だけ)男性。

根っから女装者&ニューハーフ好きだった彼も、女性と結婚して、ある地方都市で会社の取締役として忙しい日々を送っているらしい。

出会ったとき、30歳のシティ・ボーイだった彼も、もう40代半ばだそうだ。
7歳も年上(当時の私は、相当にサバを読んでいた)の私が、すっかり「おばちゃん」になるのも当たり前。

でも、まあ、お互い、良い年の取り方をしていることを願いましょう。

そして、いつか再会して、懐かしく昔話ができたら、いいなと思う。

さっそく、お返事を書く。


2007年07月17日 『サンデー毎日』のカラーグラビア [日常(思い出話)]

2007年07月17日 『サンデー毎日』のカラーグラビア
7月17日(火)

14日の「日記」(大雨の「きもの de 銀座」)に、『サンデー毎日』に連載されていた大出一博撮影「彩りの時-美しい四季・女性・着物-」展の感想を書いた。

今、ちょっと文章に修正を加えていたら、突然、思い出した。
10年前、私も『サンデー毎日』の巻頭カラー・グラビアに着物姿で載ったことを。

たしか、6月30日、梅雨の合間のものすごく暑い日だった。
着ているのは、草色の笹の葉柄の綿紅梅(竺仙)。

撮影場所は、新宿御苑。
カメラマンは、もちろん大出さんではなかったが、毎日新聞社専属のカメラマン。

いくつものポーズを撮影した中で、担当記者(女性)も、カメラマンも、そしてモデルの私も、一押しだったのが、下に載せた写真。

さすがはプロのカメラマンの腕前。
池の水面を埋めた蓮の葉が夏の陽光にきらめき、それを背景に浮き上がるモデルを逆光気味にとらえている。
技術的にも、情緒的にも、とてもすてきな写真だと思う。
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残念ながら、この写真は誌面を飾ることはなく、没に。
理由は、編集長(男性)の「女っぽ過ぎる」という一言。

まあ、世の中、そんなもの。

2007年06月14日 雨の日の思い出 [日常(思い出話)]

2007年06月14日 雨の日の思い出
6月14日(木) 雨 東京 24.8度 湿度 68%(15時)東京梅雨入り

9時頃、目を覚まして朝刊を読んだ覚えがある。
ところが、次に目が覚めたら14時だった。

この数日寝不足だったせいか、父親からの電話で「寝不足にならないように注意しろ」と言われた暗示か、それとも、しとしと雨が降る今日の暗い天気のせいか・・・・。

朝ご飯?は、巨峰ジャムを塗ったトースト1枚とコーヒー。

シャワーを浴びて、髪を高めのポニーテールに結ぶ。
10時間も寝たのに、そのわりには、身体の調子がよくない。
苦手な高湿度のせいだろうか。

ブログにいただいたコメントへのレスを書く。
それにしても「百合」ネタは反応がいいなぁ。

16時、雨の中、仕事場へ。

週末の京都出張の荷物と、お直しをお願いする帯の荷物を作る。
集荷を待つ間、新聞を整理。
荷物を出した後、思い立って長襦袢の袖口の汚れを部分洗いする。

19時半、仕事場を出る。
途中、「ドトール・コーヒー」で一服。

20時半、雨の中、帰宅。

夕食の仕度。
OGビーフのカルビ肉を焼く。
付け合せは、玉ねぎとピーマン。
白シメジとアスパラカスの炒め物を作る。
茄子を焼く。
それに、きゅうりとレタスのサラダ。

食後、メールのお返事書き(4通)。

お風呂に入り、髪を洗う。

夜中、『性の用語集:第2集」の第1次原稿を書く。
まずは、資料がまとまっていて書きやすい「シーメール」から。
3600字ほどにまとめる。

「日記(14日分)」を書く。

東京、やっと梅雨入り。
平年より6日遅く、近年では、1999年の6月17日に次ぐ遅い記録。

ところで、今日のような本降りの日は、濡れたスボンが脚にまとわりついて、なかなか乾かず、気持ちが悪い。

で、思い出した。
昔、昔のこと、初めてひどい雨の夜にミニスカート姿で出かけた。
趣味で女装していた頃は、雨がひどい日は「や~めた」で済んだが、曲がりなりにもお店のお手伝い(ホステス)をし始めたら、「今日は雨だから休みます」というわけにはいかなくなった。
雨の日は新宿駅から歌舞伎町の入口まで地下道(サブナード)を抜ける。
その夜は、かなりの吹き降りで、地下道の出口から区役所通りの店までの5分足らずの間に、かなり濡れてしまった。
ところが、店に着いて、チーママからタオルを借りてパンストにつつまれた脚をぬぐったら、30分もしないうちにすっかり乾いてしまった。
一方、接客している相手のおじさまたちの濡れたスボンはなかなか乾かない。
「ああ、雨の日は、ミニスカ&パンストって便利なんだなぁ」と、その時、初めて気づいた。

あれは、いったい何年前のことだったろう?
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↑ 雨上がりの路上で(『週刊SPA!』1997年5月28日号)

就寝、5時。

2007年03月07日 元「性格系小悪魔」? [日常(思い出話)]

2007年03月07日 元「性格系小悪魔」?
3月7日(水) 晴れ 東京 10.9度 湿度 33%(15時)

8時半、起床。
朝食は、バタートースト1枚とコーヒー。

シャワーを浴びて、髪を毛先を出したお団子にまとめる。

午前中、講義。

昼食は、自由が丘の「フランス亭」でおろし紫蘇ハンバーグのランチ。

13時、予約を入れておいた「手もみん」へ。
1時間、じっくり揉んでもらう。
肩・背中・腰・脚どこも全部張っていて、やっとほぐれかけたかなと思ったところでタイムアップ。
でも、これ以上強く揉むと身体へのダメージが大きいの、難しい。

15時、仕事場に戻る。
花粉症の発作でダウン。
16~18時、夕寝。

少し良くなり、画像処理作業(8枚)。

20時半、帰宅。

夕食は、まぐろのしゃぶしゃぶ(野菜は、長ネギ、水菜、しめじ茸、えのき茸)。
残ったまぐろのさくの処理法として実験的にやってみたが、ポン酢醤油と大根おろしに七味唐辛子のたれで、けっこうおいしく食べられた。
1500円のさくで、3日間食べられたのだから、安いものだ。

夜になっても鼻水ぐしゅぐしゅでくしゃみ連発。
「日記」も書く気になれず、サイトを巡回していたら、ぼたん姐さんのブログに、「あなたの小悪魔道」というのが紹介されていて、おもしろそうなので、やってみた。
http://beautystyle.jp.msn.com/beauty/check/alternative.aspx/category=beauty/checktest=3/

結果は↓。

あなたの小悪魔タイプは「誘惑しちゃう!?性格系小悪魔」
あなたは外見を取り繕って誘惑するというよりは、相手を翻弄するテクに長けた、性格が小悪魔なタイプです。冷たくしたかと思えば甘えてみたり、時にほかの人に気があるふりをしたりするあなたに、オトコのペースは乱されっぱなし。「キミは僕のことどう思ってるの!?」なんて思わせる頃にはもう、オトコはあなたから離れられなくなっているって計算です。

10年前の私なら、けっこう当たってるかも。
10年前の順子は、男に惚れないたちなのに、男にちやほやされるのが好きで、おまけに男とSexするのも大好きという、いたって性質(たち)の悪い「女」だった。
いつでも誰でもOKという風情のときがあるかと思えば、100万積まれても嫌な時は嫌と断言するときもある、気まぐれもいいところ。

まじめで純情なタイプの男性には、なんとも扱いにくい「女」だったろう。
逆にプレーボーイタイプの男性には、お似合いの(都合のいい)「女」だったと思う。

ずいぶんいろいろ遊んだ過去があることを、私は否定しない。
ひっくり返る人がいると困るので、詳しくは書けないが、たいていのことはやった。

そのころのことを、今更ほじくり返して、まるで鬼の首でもとったように、「淫乱だ」「変態だ」と私を批判する連中もいる。

そういう下劣な批判に対しては、「あのころは、若気の至りで、まあいろいろありました。でも、それも含めて人生の糧だと思ってます」と答えることにしている。

男に一顧だにされないようなモテない「女」たちに比べたら、ずいぶんと楽しく豊穣で充実した「青春」だったと思う。

ともかく、その後、更生の努力をして、今ではすっかり善良な「おばちゃん」(笑)なのだから、それでいいじゃないか。

お風呂に入って、髪を洗う。
今日も早寝。
就寝、1時半。


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