SSブログ
日常(思い出話) ブログトップ
- | 次の10件

2007年02月14日 バレンタインチョコの初体験は・・・ [日常(思い出話)]

2007年02月14日 バレンタインチョコの初体験は・・・
2月14日(水) 雨 東京 13.0度 湿度 82%(15時)

9時、起床。

シャワーを浴びて、髪をポニーテールに結ぶ。
朝食は、りんごパイ。

朝から久しぶりの本格的な雨。
郵便局に寄って、採点表を配達記録で郵送。

午前中、講義。

昼食は、回転寿司(7皿)。
ちと食べすぎた感じ。

学芸大学駅にもどって、コーヒー休憩。

13時半、仕事場に戻る。
メールチェックの後、『ニューハーフ倶楽部」の連載エッセーのゲラをチェック。

今日も身体がだるい。
昨日と同様、16~18時、2時間ほど夕寝。

12月中旬にはじめたMixiでいろいろ見ているうちに、昔の仲間を4人ほど発見。
マイミクのお願いメールを出す。

Mixi、最初は、着物関係限定で、「おばちゃん」のふりをしてようと思っていた。
でも、やっぱり昔の知り合いの動静が気になり、覗き見しているうちに「足跡」を残してしまい、文字通り足がついてしまった。

ということで、現在のマイミクのリストは、着物関係と女装関係が混在。
まあ、両方とも世の中の標準からすれば「怪しい人」だから、いいか。
って、その両方を兼ねている私が一番怪しいのか・・・・。

20時半、帰宅。

夕食は、父親が送ってくれた手製チャーシュー。
パートナーが買ってきた牡蠣フライ。
お豆腐と下仁田ねぎのお味噌汁を作る。

お風呂に入り、髪を洗う。

ところで、今日は、バレンタインデー。
チョコをもらう立場からあげる立場になった話は、昨年書いたので、繰り返さない。
「見せチョコの思い出」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200602140001/

ふと、最初にチョコをもらったのはいつだったろうと、考える。
中学校時代には、そういう風習は(少なくとも田舎には)まだ広まっていなかった。
高校時代も、チョコで騒いだ覚えがない。
つらつら思い出すと、浪人時代に付き合っていたガールフレンド(田舎の中学時代の同級生)からもらったのが最初のような気がする。
金色の紙に包まれたハート型チョコだったような・・・・(当時は、そんなに種類がなかったはず)。

彼女、どうしているかな。
絵が上手な娘で、東京の美大に進学したはず。
お互いぜんぜん違う分野の大学に進んで、自然消滅しちゃったので、その後の消息を知らない。
元気で幸せならば、もう孫がいるかも。

そうすると、私のバレンタインチョコの初体験は、1975年ころということになる。
バレンタインデーが大騒ぎになるのは1980年代、という私の説(昨年の「日記」)からすると、意外と早いなぁ・・・・。

夜中、「日記」を書く。

浅田次郎『憑神(つきがみ)』(新潮社 2005年9月)を読み始める。

就寝、4時半。

2007年01月02日 振袖を脱いだ思い出 [日常(思い出話)]

2007年01月02日 振袖を脱いだ思い出
1月2日(火) 曇り 東京 10.9度 湿度 37%(15時)

10時半、起床。

朝食は、マドレーヌ1個とコーヒー。

シャワーを浴びて髪を洗う。
ブローしてお団子にまとめる。

故郷で買ってきた、きのこを炒め煮にする。

次に、お雑煮を作る。
昆布と干し貝柱で取っただしを一煮立ちさせて、かつを節を大量に投入。
すぐに火を止めて、しばらくおいて、布巾で漉す。と黄金色。
この黄金色のだし汁をベースにして、干し椎茸で取っただし、野菜の煮汁、鶏肉の煮汁などを味見しながらブレンドし、塩・酒・醤油で味を調え、お雑煮に汁が完成。

お餅を焼き、具(鶏肉・大根・にんじん・椎茸・小松菜・かまぼこ)を、お丼に入れて、だし汁をかけてできあがり。

ウチのお雑煮の基本は、母方の江戸山の手(武家)風。
今年は、うっかり里芋を入れるのを忘れてしまったけども、年末に作り置きしておいた根菜の煮物に大量に入っているので、それで代用。

箱根駅伝(往路)を見ながら、お雑煮を食べる。
お雑煮の他には、きのこの煮物と、黄菊の花の酢の物。

駅伝は、4区と5区で追い上げた順天堂大学が昨年に続き鮮やかな逆転の往路優勝。
特に、5区の山登りのスペシャリスト今井選手は、5位からごぼう抜きでトップに立ち、驚異的な区間新記録を樹立。
私の関係校では、早稲田大学はまずまず健闘の4位。
中央大学は14位に沈み、23年ぶりのシード落ちの危機(シード権は10位まで)。

午後、「日記(30・31・1日)」分を書く。

夕食は、冷凍庫の整理のために解凍しておいたステーキ肉(2枚)を焼く。
今日は、タマネギに塩・こしょうだけのシンプルな味にする。
付け合わせは、炒めタマネギの外に、コンソメで煮ておいたにんじんと大根、それに椎茸をバターで軽く炒める。
肉汁をたっぷり吸った炒めタマネギが美味。

夕方~夜は、テレビを見ながらのんびり過ごす。

フジTV「新春 さんまのまんま」にゲスト出演の女優の釈由美子、黒地に桜散らしの振袖姿で登場。
まずまずよく似合っていた。
と思ったら、番組の途中で「帯が苦しい、脱ぎたい・・・・」と言い出し、「落語家なんで着物は得意」と言う明石家さんまが、ニヤニヤしながら帯締をほどき、帯の結びを解くというハプニング。
しかも、そのまま、だらり帯姿で出演を続けるという事態に。
基本的には、根性がある女優さんが耐えられないほど締め付けた着付けさんが下手なのだけど、そのまま出演を続けたのは、いくら何でもお行儀が悪すぎ。

と思った、おばちゃん、自分が昔、振袖を人前で生脱ぎしたことを思い出した。
それは自前の大振袖を最初に着たお正月(1996年)のこと。
14時くらいに着付けてもらい、湯島天神と花園神社(新宿)に初詣でして、伊勢丹のレストラン街で夕食を食べ、夜になって懇意のお店を数軒、お年賀廻り。
22時くらいに自分がベースにしていた店(歌舞伎町の「ジュネ」)へ行って、いつものように明け方まで、お手伝いホステスというスケジュール。

4時間ほど働いた(と言っても、大振袖姿では立ち働きはできず、ほとんどお人形状態)夜中の2時頃になって、どうにも我慢できないくらい身体が辛くなってきた。
着付けてから12時間が経過しているから無理もない。
幸い着付けてもらう前に着ていた洋服一式を大袋に入れて店に持ち込んでいたので着替えることに。

ところが、大振袖を脱ごうにも場所がない。
トイレは狭くて、着物を汚す可能性があるので、ママに止められる。
結局、お店のフロアー(絨毯敷き)で、お客さん(少なくとも5~6人はいた)に、袖や帯の垂先を持ってもらっての生脱ぎショー状態に。
さすがに、長襦袢姿になったところで、トイレに駆け込んけど、今にしてみると、つくづくはしたないことをしたものだ。
羞恥心の構造が、生まれつきの女性とは、やっぱり異なってるいのだろうなとも思う。

だけども、その時、お客さんの中に、けっこう喜んでいた人がいたのを思い出す。
しばらく経ってから「あれは色っぽくてよかった。興奮しちゃったよ」と言ってくれたお客もいた。
本人は、ともかく身体が辛くて、色気に配慮する余裕などなかったのだけど。

今回の釈由美子のケースも、最初はほんとうのハプニングだったのを、ディレクターが視聴者の生脱ぎ期待を考えて、そのままカメラを回し、放送に使ったのだと思う。

「日記(2日分)」を書く。
ちと難儀な、お返事メールを書く。


2005年12月29日 仕事納め・懐かしい電話 [日常(思い出話)]

2005年12月29日 仕事納め・懐かしい電話
12月29日(木) 晴れ

11時、起床。

朝昼ご飯は、昨日買ってきた中村屋のピロシキとカリーパン半個。

13時半、仕事場へ。
メールチェック、「日記」と「年末のご挨拶」のアップ、お返事メールの送信。
その後、画像の取り込み作業(5枚)。
16時、年内の業務終了。

ちょうど仕事を終えたところに、私が駆け出しの頃にお付き合いしていた男性から、電話がかかってくる。
けっこう社会的地位のある方で、当時60歳ちょっとくらいだったから、現在は70歳代半ばくらいだろう。
最初にお会いしたのはもう14年くらい前だろうか。
ベンツで私の部屋の近くまで迎えにきていただき、東名高速を御殿場まで走り、山中湖へ抜けてホテルで休憩して、中央道で東京に戻るというコースの半日のドライブだった。

その後も、晩秋の相模湖や、都内のホテルで3回ほどお会いした。
最後にデートしたのは、もう8年くらい前だと思うが、今でも年に1~2度、お手紙や電話をいただく。
こちらも求めに応じて写真などを差し上げる関係。
早い話、数少ない「順子ファン」の男性。

20分ほど近況報告や思い出話。
「声や話し方、もうすっかり女性そのものだね」と言われる。
そうなのだろうか?
自分では姿以上に、声は問題有りだと思ってるのだけど。

「来年こそ、一緒に食事でも」と言ってくださるが、社会的地位のある方は、お忙しいだけでなく、人目につくとまずいので、セッティングがむずかしく、なかなか実現しない。
最後にお会いした時も、某一流ホテルの高級中華料理店の個室だった。
昔を思い出して懐かしかったし、声の感じがお元気そうだったので一安心。

17時、近所の「天然温泉」へ。
お湯とサウナを行き来して、身体を温めてリラックス。
リバウンドが心配なので体重測定。
前回比+0.2kg。まあ、誤差の範囲。
(ダイエットスタートから、-9.7kg)

19時、帰り支度をして、溜まった新聞(1週間分)を抱えて、喫茶店へ。
コーヒーを飲みながら、必要な記事を抜く。

20時、帰宅。

夕食は、肉野菜炒めを作る。
それに東急ストアで買ってきた餃子。

食後、新聞の切り抜きと整理。
お風呂に入る。

年賀状(家族版)を書く(20枚)。
「日記」を書く。

就寝3時。

2006年07月28日 「となりのトトロ」/昭和30年代ブーム [日常(思い出話)]

2006年07月28日 「となりのトトロ」/昭和30年代ブーム
7月28日(金) 曇り

11時半、起床。

朝食は、トースト1枚、生ハム4枚、レタス&きゅうり。

午後、レポートを回収しに短大へ。
講師室で採点して、成績表も提出してしまう。

帰路、駅の蕎麦屋で昼食(冷やしかき揚げ蕎麦)。

16時、仕事場に戻る。
メールチェック、「日記」のアップなど。

18時、久しぶりに「手もみん」へ。
いつものマッサージさんに1時間じっくり揉んでもらう。
首、肩も凝っているが、予想以上にひどかったのは腰。
それが太腿(外側)から、膝下の異常な張りの原因になっているようだ。

20時、帰宅。

夕食は、豚肉のしょうが焼きを作る。
それに、赤貝とまぐろのお刺身。
私は、ほやの酢の物、あしたばの胡麻和え。

食後、子供と一緒に宮崎駿監督のアニメ映画「となりのトトロ」(1988年)を見る。
昭和30年代の日本の田舎の情景、たしかに懐かしい。
描かれている水田、入道雲、里山、森、息を飲むほどに美しい。
姉妹と父が暮らす田舎は、ある意味での理想郷として描かれている。

しかし、当時を思い出してみた時、はたしてあの頃の日本はあれほど美しかっただろうか?
食膳にはちょっと目を離すと黒蝿が止まり、庭で遊んでいたら薮蚊に食われ放題だった。
畦道を歩けば、肥え溜の強烈な臭いがした。
舗装されていない道路は、お天気が続けば埃だらけ、雨が降れば水たまりだらけで、歩くのにたいへんだった。
現代では信じられないような貧しい人も多かった。
子供だって、青鼻を垂らしているような子はいくらでもいた。

ちょっと美化しすぎているように思う。
でも、現実主義者の私でさえ、トトロや猫バスがいたらいいなと思う。
だから、ヒットしたのだろう。

昭和33年を舞台にした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)がヒットした昨年あたりから、昭和30年代ブームのようだ。
確かにあの頃から、日本人は必死に働き続け、高度経済成長を達成し、その結果、経済的な繁栄と飢えや寒さとは無縁な豊かな生活を得ることができた。
しかし、それと引き換えに、美しい自然と豊かな人情を失った。
だから、あの頃が、より懐かしく美しく思えるのだろう。

だけど、あの頃の生活に戻れるかと言えば、ほとんどの人は不可能だろう。
物質的豊かさとは麻薬のようなものだからだ。
私も自信がない。
戻る気がない、戻れないことがわかった上でのブームって、ちょっとどこか空しいかも。


昭和33年の私

お風呂に入った後、明後日からの家族旅行の支度をする。

夜中、『ニューハーフ倶楽部』の連載エッセー「フェイクレディのひとりごと 53」を書く。
テーマは「『女』として年をとる」。
1時間ほどで一気に書き上げる(1875字)。

強めのマッサージの後はいつものことだが、身体がとても辛い。
水分を多めに取って、疲労物質の早目の排泄を心掛ける。

『インド 第三の性を生きる-素顔のモナ・アハメド-』(青土社 2006年7月)を読み始める。

就寝、3時。

- | 次の10件 日常(思い出話) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。